情報公開をしないお役所

失われた30年の最初の10年間には、情報公開法令が整備されていなかった。西欧諸国にならって、地方に情報公開条例が制定され、国の情報公開法も1999年5月に公布された。
民主主義の基礎となる制度がようやく施行されたものの、非開示が乱発されてきた。

  1. 国は実施機関の判断に責任転嫁している。
  2. 実施機関(各中央省庁と各地方自治体)は、例外規定による非開示を乱発している。
  3. 結果、国も地方も、黒塗りだらけの文書開示(いわゆる「のり弁」)が漫然化している。

そして、施行から20年が経過したにもかかわらず、適正な運用の確保による行政運営の公正性・透明性向上は、何も行われていない。それどころか、法律を所管する総務省は、次の基本的なことさえ整理していない。

  • 広く公開すべき情報/申請しなければ公開されない情報
  • 例外規定の対象となる情報/ならない情報

その結果、公開される情報は実施機関任せ→情報開示を求めても黒塗り→審査請求に半年待たされる→ほとんどの人は情報開示の段階であきめる。職業ジャーナリストの場合、「のり弁」を争っても最低半年を失うのでニュースを調査する価値が失われる。結果、隠したモン勝ちの状況がつづく。

説明責任を果たさない権力者

私たちは、疑惑の渦中にある政治家たちが自身の説明責任を放棄する様子を、嫌というほど見せられてきた。

政治家
  • 「知らぬ、存ぜぬ」の一点張り
  • 警察が捜査しないから、自分はシロ
  • 私が〇〇というなら、証拠を出しなさい

政治家の説明で共通するのは、「刑事司法で裁かれない限り潔白」という論理だ。
政治家らが手を染める犯罪の多くは、権力を私益に誘導する経済犯罪である。『密室の犯罪』と言われる経済犯罪は、すべてが用意周到な確信犯である。それを捜査し、クロにするのは、容易ではない。
動かぬ証拠を突き付けられない限り、犯罪者自らが認めないのは、犯罪の種類を問わず共通する。では、立証が困難な権力者の経済犯罪は、はたして抑制されているのだろうか。

権力監視をしないマスメディア

権力を監視する責務を委ねられているのはマスメディアだ。しかしながら、日本のマスメディアが常としているのは、権力監視ではなく、記者クラブを舞台とした権力との馴れ合いだ。

記者クラブでの馴れ合いは、ニュースネタをマスメディアが安定的に独占する極めて重要な関係だ。マスメディアが、多くの分野でインターネットに追い越されたにもかかわらず、ニュース分野で安泰なのは、記者クラブ制度によって、国内政治や事件ニュースの出どころを牛耳っているからである。

ここで、報道の自由度ランキングの推移を確認しておこう。

報道の自由度が低い日本

失われた30年のなかで、安倍政権時の下落が目立つ。そして、報道に自由のない日本では、タブーの壁に守られた権力者らが好き勝手に国を動かしている。

捜査が困難な犯罪を扱わない警察

報道が正常に機能し、世論が権力者の犯罪疑惑の追及を求めたとしても、警察は、『犯罪の受付』段階において、捜査対象を取捨選択している。

『犯罪の受付』段階での取捨選択

交通犯罪の認知率レイプ(性犯罪)の認知率背任・汚職の認知率
交通事犯の認知率
レイプの認知率
背任・汚職の認知率

上図のタブを「背任・汚職」から「交通犯罪」または「レイプ」切り替え、認知率の大きな差を確認してほしい。捜査が簡単で警察の利権に直結する交通犯罪がもれなく受け付けられるのに対し、捜査が困難な経済犯や知能犯が受け付けられていないことが分かるはずだ。

そして残念ながら、権力者の経済犯罪が捜査されるのは、誰もがクロを疑う犯罪疑惑が広く報道された後に東京地検特捜部が動くときだけだ。

選挙のときだけの民主主義

以上のとおり、日本は、民主主義の体裁をとっているものの、その実態は権力階級が支配する専制主義国家に近い。また、法治国家の体裁をとっているものの、法の解釈や運用が権力者のさじ加減次第であるように見える。

そして選挙は、『民主主義の体裁を取り繕うための儀式』に成り下がってしまっているのではないだろうか。

問題の中枢国全体の問題としての図本来の民主的法治国家

一方、国民のマインドは、メディアが主導する『同調圧力』によって方向づけられている。